これからの教育改革
最近教育基本法の改正が行われた。1947年以来60年ぶりのことだという。今日、多くの国民の間に、現在の教育のあり方について大きな疑問や不満があるのは事実だと言っても良いだろう。その問題意識は非常に多岐にわたるが、根源的な問題は戦後60年間の教育システムと、その結果として作り上げた現在の日本の社会に多くの問題があるという認識ではないかと思う。その意味では今回の教育基本法の改正は避けて通れない国家的な課題だと考えている。
我々戦時中の教育を体験した世代から見ると、戦後の自由で自主性も発揮できる戦後の教育は確かに素晴らしいと思うし、間違ってもかってのような教育体制への回帰など望みたくも無い。しかしその一方で、何か大切なものを失ってしまったような思いも強い。戦後、日本は驚異的な経済発展を実現することが出来たと同時に平和を享受することができた。その原動力となったのは戦後の自由な気風と同時に、”日本株式会社“と言われるほど企業や産業の発展のためには一致団結して努力するという気概と情熱、そして高い知的水準と能力があったからだと思う。それと同時に、日本の社会には他の国の人々が感心する礼儀正しさと治安の良さがあった。その多くは明治時代以来の教育が作り上げてきたのではないだろうか。いまそれが崩壊とまではいかなくとも、徐々に悪化しつつあることと、日本社会のかっての優れた特性が失われつつあり、このままではグローバル化しつつある世界の中で、最近急速に国力を強化しつつあるアジアの他の国々に対して対抗できなくなるという危惧感が、現在の教育制度に対する不信感の根源にあるのではないだろうか?
そもそも教育は何の為に行うのか?それはまず国民が高いレベルの教育を受けることによって充実した豊かな人生を過ごせることにあり、それと同時に厳しい世界レベルの競争の中で、高い知的能力を身につけ、個人、企業、国家という次元で逞しく勝ち残れ、豊かで平和な社会を作ることにあると思う。それと同時に願わくは、知的レベルが高く、品格がある社会を作ることも教育の目指すべき重要な課題であろう。
今回の教育基本法の改正にあたり、国会やマスメディアではもっぱら愛国心の問題と国家による教育への統制の強化への危惧、そしておよそ本質的な問題とは思えない“いじめ”やタウンミーティングでのやらせの問題がとりあげられていた。教育現場の実情を知らずに語るのはいかがかとは思うが、私達の世代にもすさまじいいじめが存在していた。あの時代風潮を背景にして時には激しい暴力も伴っていて、学校を変わるたびに集団からの排除を受けた経験もある。そもそもいじめは教育基本法で防げるものでもあるまい。
私個人は愛国心は法律で取り上げるテーマでは無いと考えている。それは愛国心を否定するからではなく、国民が本来根源的に持っているものであり、そのことはオリンピックやワールドカップを見ればわかることだ。それをあえて取り上げざるを得ないのは、戦後意図的に国家意識の否定を強調する勢力があったために過ぎないのだと思っている。
教育への国家の関与は当然であって、そもそも教育は治安、防衛、福祉と並ぶ国家の基本的な責務である。一部の識者と称する人たちが”教育が国民から国家の手に移る”という危惧感を述べていたが、その際の国民とは一体誰がどうやって決めるのか?私達は教育が一時、一部の思想家の手段にされたという苦い経験を味わっている。かってのような行き過ぎた国家主義への恐れは、本来選挙を通じた国民の意志で防ぐのが民主主義の原点と考えるのは甘いのだろうか?
いずれにせよ現在、日本の教育のあり方を根源的に問い直す時期に来ていることは間違いない。それは単に教育機関だけの問題ではなく、家庭、社会の価値観、そして到底レベルが高いとは言い難いマスメディアのあり方にもかかわる日本社会の将来へ向けての最も重要な、今日的課題なのである。