宴のあと
朝陽同窓会会長 山之内 秀一郎
昨年の秋に突然安倍総理が辞任された。丁度その時、ヘルシンキに着いた時だったのでTVのニュースを見てびっくりした。海外の新聞も大きく報道していた。危ないとは思っていたが、あまりにも突然の、しかも異常なタイミングでの辞任劇だった。帰国後、辞任の前後の様子から判断してこれは“鬱病”だなと思った。全く同じ症状を経験したことがあったからだった。2000年7月に、突然全く経験の無い宇宙の世界で仕事をすることになり、当初はそれほど深刻には考えていなかったのだが、政治家を始めマスメディアなどの“絶対に失敗は許さない”という技術に対する無理解とも言える要求のために大変なプレッシャーを受け、ノイローゼ状態となったのだが、幸い5回連続して打ち上げに成功した。だが、6号機の失敗が決定的なショックとなり、医師から”生命を選ぶか仕事を選ぶか、すぐに決めろ”と言われ、辞任した。安倍総理の様子が私の経験した症状と酷似していたのだった。
”死者に鞭打つ”という言葉があるが、この時のマスメディアの報道を見ていてまさにこの言葉がふさわしいと思った。安倍内閣はそのスタートが華々しかっただけに、その後の色々な問題の発生と、なんと言っても参議院選挙での自由民主党の大敗は安倍総理には応えたのだろう。だが何故自由民主党は大敗したのだろうか、もう一度考えてみたい。安倍内閣は短期間の間に長年の懸案だった、教育基本法の改正、憲法改正の手続きの制定、防衛庁の防衛省への昇格(この組織がこうした昇格に応えられる組織かどうかは別にして)など、その是非については色々な御意見があるとは思うが、一国の基本的な政治課題を実現したのは事実だし、公務員制度の抜本的な改革にも手をつけた。安倍内閣への信頼の低下は閣僚の不祥事の連続と、年金記録の不備問題、それに一部のマスメディアが火をつけた”格差”問題にあったように思う。これらの問題は重要でないとは言わないまでも、現在日本という国が直面している国家的な大問題だとは到底思えない。財政の極度の悪化、高齢化社会への対応、急速に台頭してくる中国やインドなどを前にして国際競争力を高めるための国全体のシステム効率の向上(いわゆる構造改革)、資源と安全保障の問題、そしてこの国民の知的レベル、活力とモラルを如何にして高めていくか?こうした問題こそが国政の中心的な課題だと思うのだが。良いことでは無いのは事実だとしても、政治にお金はつきもの。巨悪はともかく、あまりにも些細な事を大きく取り上げ、騒ぎたててるのは如何なものか?政治家に期待をするのは表面的な潔白さではなく、その見識と実行力にある。些細なことに目くじらを立てて潔白だが無能な人物が残るようでは困る。もっとも今回問題になった人たちが政治家として優れているかどうかは大いに疑問なのは事実だが。格差問題も小泉政治へのアンティテーゼとして一部のマスコミが大衆受けを狙って大々的なキャンペーンを張ったような気がする。確かにこの数年の間に、大都市と地方との格差、それに正規社員と非正規社員との所得の格差が広がったのは事実だろう。だがこれはそれほど大騒ぎしなければならにほどの大問題なのだろうか?外国での格差との比較では勿論のこと、日本でも私が子供の頃の方が遥かに所得格差は大きかったように思う。世界的な競争時代を迎えて、この国の社会構造を変え、国際競争力のある国にしていくためには どうしても非効率な分野の改革が欠かせない。それは結果として痛みをともなう。賞味期限切れの問題に至っては、こんなことが問題になる国が他にあるだろうか?その結果大変な浪費と無駄が起きていると思うのだが。
今回の参議院選挙の結果が民意だとすると、民意は何をもとに判断し、その結果がどうなり、誰がそうした民意を作っていったかを問い直すべきだろう。参議院選挙の結果、国政は極端な意思決定不能の状態となった。二政党が両院の多数を分け合うことによって、真剣で本質的な政策の議論が行われるならばともかく、あら捜しと低レベルの党利党略ばかりが目につく。今は食品の賞味期限や卑しい個人のちょっとした不正を問題にしている時ではないはずなのに。マスコミはそればかりを面白おかしく、しかも正義の論者の仮面を被って報道する。年金記録のでたらめさにはあきれるが、国政を左右する大問題ではあるまい。政治の問題というより二流官庁の無能さと当該職員の不真面目さが問題なのでないだろうか?福田総理の”選挙公約というほどのことでは無い”というのは言葉尻を捉えればその通りだが、卑しくも国政を競う場での政策上の公約としてはこの調査時期の問題は大問題とは思えない。小泉内閣で進み出した国の非効率な分野の改革は停滞し、道路工事を始め、選挙対策のためのバラまきへの回帰が始まっている。選挙で選ばれる政治家がこうした方向に舵を切らねばならないのは判らないでは無い。問題はそうした方向に国の政治を向かわせている民意、それを煽るメディアにあるのではないだろうか?“国民はその身の丈に合った政治しか持てない”という。そして企業の社会的責任が強く問われている時に、メディアの社会的責任は問わなくても良いのだろうか?