古稀記念文集「あのころ万華鏡」発刊の報告
…というわけで、楽しく過ごした1年間だった。
5.6 七夕会幹事会で古稀記念に文集を発行しようと河野佳子さんが提案。
七夕会の一大事 業としてやることになり、ただちに編集委員会が組織される。
委員長は増田英男幹事長。七夕会の一大事業なのでこれは当然。だが、ぼくが編集長 とは、ちょっと誤算。
だけど面白そうなのでまあいいかと、ノーテンキに引き受ける。編集委員は、阿部光、 大庭慶雄、河野佳子、村田紘隆の少数精鋭。5.17 第1回編集会議。連絡のつく会員全員に封書で呼びかけを送ること。文集のサイズは B5版とする。原稿が少ない時は、座談会や年表をつけることなどの意見が出る。 5.28 原稿募集の呼びかけ発送。
締め切り:8月末日。2000字以内。発行:来年4月1日。6.13 早くも原稿第1号が届く。その後、続々。原稿は委員にメールで送付し確認しあう。 7.7 七夕会で古稀記念文集をアピール。 7.30 「締切迫る!」の催促状を、名簿係のメール担当に依頼して送信。 8.31 締切日。集まった原稿は76人。題名に「思い出」とか「懐かしい」とかは避けて,個性のある題名をつけてもらおうと頼む。ときには僭越にもいくつかの案を提示したが、快くきいてもらえた。ただし長すぎる原稿もあって、これにはちょっと往生。 9.2 名簿発送に合わせて、寄稿呼びかけを同封。しつこいぞ! 9.28 第2回編集委員会(会場:国立オリンピック記念青少年総合センター)。
この日までに99人。 これだけ集まったので、座談会はやめ、年表だけにする。
テーマ別にジャンル分けして全9章構成にする。版下作成を野辺真葵さんに頼む。10.25 第3回編集委員会。寄稿者108人。
ついに大台を超える。 原稿校正の方針を話し合う。特に数字の扱い。また真葵さんから全体に文章が長く漢 字が多くて読みにくい。読みやすくするために改行を多くし漢字をかなに開いていい かときかれる。若い人にはそうだろうが、みんな若くないのでここは原文を尊重した いと伝える。ただし改行はある程度必要だろう。11.25 第1章の組見本できる。こんな風になるのかと感激。真葵さんのセンスがいい。 12. 9 第4回編集委員会。増田委員長が椎間板ヘルニアになる。歩行困難なので、ぼくの縁 で練馬区の街づくりセンターで車椅子を借りる。 印刷を巧南社に決める。 そして、年が明けて、2012年。 1.12 第5回編集委員会。最後の原稿が来る。ついに、120人!
予算案検討、カラー口絵はやめることで予算を縮小。表紙は成瀬輝一さんに頼む(連 絡は大庭委員)。イラストの描き手を推薦しあう。昔の写真も集める。50周年七夕 会の集合写真を載せるためのトリミングを撮影者の内田徹氏に頼む。
年表に、2年の学園祭で上演した演劇の作者と演出を載せることにする。これが後々 大難事業になる。演題は「朝陽時報」に載っているが、それ以外は分からない。いろ んな人に協力をあおいだがなかなか判明せず。2.1 七夕会幹事会。予算案を提示。目次見本を披露。
全貌が分かったせいか好評なり(と思う)。2.6 ジャンル別を検討。8章に組み直す。イラスト続々とどく。 3.13 第6回編集委員会。イラストの配置、新予算案の検討。題名候補をあげて幹事に意見を求めたが、少なかったので編集委員会で決める。全員一致で「あのころ万華鏡」。イラストのスキャンは専ら大庭委員にお任せ。紙の地色が出ないよう何度もやり直す。 4.20 幹事会で新予算案(500部で総経費75万円)が承認される。
校正見本を回覧。文集の概要がわかったせいか評判よし。年表原稿もできる。
出典は「朝陽時報」。社会的事件は他の年表から。5. 1 東天紅にて、成瀬氏と原画展の打ち合わせ。 5.11 完成原稿を巧南社にUSBで渡す。プリント原稿ではないのが現代的。 5.25 印刷見本届く。ついに発刊! 5.28 全員に1冊ずつ発送。呼びかけをしてから丁度1年目。
感想・カンパ続々届く。6.18 編集委員会打ち上げ。野辺真葵さん、田畑房徳氏をゲストに招く。30代の若いシャープな女性がまじったので委員の心は大いに和む。 7. 7 七夕会は、「あのころ万華鏡」の話題で和やかに大盛況だった。 7.18 朝陽同窓会に寄贈。また高校の図書室においてもらえることになる。