第一回 佐藤喜一さん(1回)
新しいシリーズの巻頭を飾るために、佐藤喜一さん(新1回卒)にご登場頂きました。
佐藤喜一さん(新1回卒) 中公新書
佐藤さん、いえ佐藤先生とお呼びしたほうが皆さんにも馴染まれていると思いますが、先生は母校の新宿高校に昭和38年に国語の教官として赴任されて以来、24年間(大体15回生から39回生の頃です)、ずっと教鞭をとっていらっしゃいました。
インタビューのため、わざわざ母校においでくださったその日、佐藤先生は昔のとおりのきちっとしたスーツ姿で、いつもと同じ優しい笑顔で同窓会事務局にお見えになりました。
佐藤先生のイメージは、高校の先生のお仕事、予備校の教師のお仕事、そして執筆活動を全力で取り組まれ、全て順風満帆に生きていらした方、というものでした。実際もそうなのかもしれませんが、お話を伺っていると、人知れずさまざまな想いを持っていらっしゃるのでは、という印象を受けました。
旧制第6(府立第六)中学校の3年の時に終戦を迎えられ、戦前の教育と戦後の教育との180度の違いに戸惑いながらも、「どこまでも自分の足で歩こう。立ち止まってはいけない。終点は地図の上にないのだ。」という大佛次郎の言葉を支えとして主体的に生きよう、創造的に生きよう、可能性の発見に努めたいと生きてこられたそうです。戦前、戦後の世の中を生き抜くことは、大変だったようです。
大学は、先ず工学部に入られ、その後、文学部へと方向を変えられたそうですが、これも鉄道少年と文学青年を併せ持っていらっしゃる故の、レールの切り替えとのことでした。
大学院修士課程を終えて、都立高校の国語の教師になられました。そして8年目に母校・新宿高校に赴任され退職されるまで、また退職後も新宿高校と同窓会の発展の為にご尽力なさっていらっしゃいます。教師をされながら、心から離れなかった言葉に、「学ぶとは こころにまことに刻むこと/教えるとは ともに未来を語ること」(ルイ・アラゴンの詩から)があるとのこと。それを裏付けるように先生のお話では、幾度か「生徒達に助けられて教師をやってこられたよ。大変有難いことだったなあ。」という言葉が、しみじみとまた懐かしそうに語られました。
学校の仕事が楽しかったため長らく休んでいた鉄道少年の夢が、還暦の頃から広がりはじめ、定年前に「新宿」をご退職、文学青年の夢とともに新しい自分の可能性を発見しようと努められ、1999年に<郷愁と発見にみちた鉄道エッセイ>「汽笛のけむり いまいずこ」(新潮社)を出版されました。この書物はめでたく第25回交通図書賞を受賞。つづいて2002年に「されど汽笛よ 高らかに」(成山堂書店)、そして昨2006年には中公新書で「鉄道の文学紀行」を刊行、文学と鉄道趣味を調和させた独自のスタイルの鉄道エッセイストとして執筆活動を続けておられます。
先生は、自分はいったい何をしたいのかを常に考え、意義のある人生を送りたい、可能性の灯を発見し続けて行きたいとおっしゃっておられました。その結晶がこれらの作品達なのでしょう。
これからも先生は、きっといのちの灯を燃やし、可能性の灯を増やし続けるために、大好きな汽車旅を続けられることでしょう。
先生のエネルギッシュなお話を伺って、私もまだまだこれから、もっと自分なりの可能性の灯を発見し続けて行きたいと思いました。たくさんの元気と勇気を頂きました。
先生、本当にありがとうございました。
最後に、先生のお言葉を載せさせて頂いて、初めての拙いインタビューのまとめとしたいと思います。
<人生五十年、と言われた時代に生まれ、15歳までは「天皇陛下万歳!」と言って死ねる人間になれ、と教え込まれ、戦に敗けてひたすら生きてきて、気がついたら喜寿の年齢になっていました。でも、平均寿命よりも若い。終着駅がどこにあるかも、まだ解っていません。乗りたい汽車が沢山あるし、書きたいこともある。書きたいこと〜〜これもできるだけ新しい発想で、と思っています。少々欲張ってるかなあ。
とにかく、なにかしら自分の可能性をまだまだ探ってみたい気がしています。あちらこちら衰えているから、そんな早くは走れないけれど、なんとか自分の足で歩けるところまで、歩いて行きたい、そう考えています。
「新宿」で最初に教えた諸君たちが、還暦を迎える年ごろになってきています。これまでの一つの仕事にピリオドが打たれ、はてこれからどうする?と迷っておられる方もあるのではないか。でも、どうぞ「終着駅は始発駅」という言葉、想い出してください。そして自分のしたいことを探し出し、それに向かって、地図にはない自分の終点を目指して歩み続けて欲しいな、と思ってます。>
インタビュー: H19.02.02
インタビュアー: 事務局 松田百合子(26回)